目の前の4年より4年後の未来を|会津藩士小池漸に学ぶ|『田名部駅を赤川に設置すれば田名部の発展のためにならず、必ず後世に憂いを残す』

小池漸

こんにちは!

むつ市議会議員選挙に立候補中の、高橋征志(たかはしまさし)です。

「目の前の4年より、4年後の未来を」

目先の4年間のことだけではなく、

すでに次の2027年の選挙、

さらにはその先の未来を見すえて、投票先を考える必要があると思っています。

今回は、未来を見すえることができず失敗したむつ市の実例を紹介します。

登場人物は、斗南藩士(会津藩士)小池漸。

出来事は大湊線の新駅、田名部駅の建設です。

目次

田名部の中心ではなく赤川に駅ができた理由

大湊鉄道の敷設工事が始まった大正五年(1916)以来、田名部町民の関心事は田名部駅の設置場所であった。町民の間では駅の設置場所については、本町に近い場所がよいとする派と、できるだけ市街地から離した方がよいとする派が互いに対立していたからである。

田名部市街地に近い場所を主張したのは、どちらかというと地区の知識人たちであり、下北半島の政治・経済の中心地に位置した町の将来のことを考えれば当然のことであった。なかでも、最も強くこれを主張したのは金曲地区に住む旧斗南藩士小池漸であった。

(中略)

彼は、大湊線に敷設が具体化すると、『田名部駅を赤川に設置すれば田名部の発展のためにならず、必ず後世に憂いを残すことになる。』と主張して譲らず、再三、田名部町議会に働きかけていった。

一方、田名部駅を赤川に設置することを主張する連中は、汽車が市街地を通れば煤煙によって町は汚れ、更に伝染病が流入して災いをもたらすと考え、極力反対した。彼らは、まだ江戸時代の前近代的な思想から脱却できなかった輩であった。

こうした動きの中で、田名部駅の設置場所については田名部町議会でも何回か討議されたが、結果的には、当時一軒の家もなく、放置されたままの荒れ地であった赤川に駅の設置が確定したのである。

『むつ市史 近代編(明治・大正時代)P879-880』

今の「赤川駅」が、昔は「田名部駅」と呼ばれていた時代。

なぜ人がほとんどいない赤川に駅を作ったのか?

カナヘビ

田名部の中心部に電車が走っていればもっと・・・

むつ市民の誰もが一度は思ったはず。

『田名部駅を赤川に設置すれば田名部の発展のためにならず、必ず後世に憂いを残すことになる。』

100年後のむつ市は、まさに小池漸の言ったとおりになりました。

新しい駅ができた後のこと|小池漸の最期

この話には続きがあります。

自分の意見が通らなかったことを悲観した小池漸は、大正十年(1921)九月二十五日、大湊鉄道の開通式が三本松において盛大に行われ、花馬車の運行や小学生の旗行列など、田名部町や大湊村で町や村をあげて歓びにひたっているのをよそ目に猟銃で自殺した。

『むつ市史 近代編(明治・大正時代)P880-881』

会津を追われ、会津藩再興をかけた地で、小池はまさに命をかけて反対したんでしょう。

地元の人間として頭が下がります。

ところで、田名部駅(赤川駅)ができても、田名部町の中心は本町でした。

では、そこへのアクセスはどうしたか。

実は、赤川の駅から田名部の本町まで馬車(軌道馬車)を引いたそうです。

アカハライモリ

・・・・・・

高橋征志

・・・・・・

小池漸のエピソードから学ぶこと

このエピソードは2つのことを考えさせてくれます。

  • 議会の質の問題
  • ぼくたち市民がどこまで未来を構想できるかという問題

大湊線が田名部の中心部を通っていたらどんなに便利だったか。

今のぼくたちは、そのことを痛いほど知っています。

目の前の利益も、もちろん大切です。

でも、未来のこと、次の世代のことも考えないと、どんどん先細りになってしまいます。

人口減少は止まりません。

それに伴って地域経済の衰退も危惧されます。

今こそ、斗南藩士小池漸に学ぶ時だと思います。

小池漸

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