1945年(昭和20年)6月23日。
軍司令官牛島満中将と参謀長長勇少将の自決により、沖縄戦を戦った旧日本陸軍第三十二軍は消滅。
沖縄戦は事実上終了しました。
沖縄戦において大本営と現地軍との意思疎通の不足による作戦目的の不統一が、現場に大きな混乱をもたらしたことは表面的には知っていました。
ただ、あらためて第三十二軍高級参謀、八原博通大佐の思想や置かれていた状況を知り、ものすごく共感してしまいました。
八原参謀の置かれた状況を簡単にまとめるとこんな感じです。
- 米軍の進攻が明らかにも関わらず、大本営から戦争のビジョンが示されない。
- そのため、沖縄戦のコンセプトを現地軍が自分たちで考えることに。
- 圧倒的に優勢な米軍を沖縄から撃退するのは不可能と判断。本土決戦のために少しでも時間を稼ぐ「戦略持久」の方針を決定。
- しかし、米軍上陸後に、大本営から「戦略持久」とは真逆の「攻勢」の命令を受ける。
- 戦略持久を確認した上司である軍司令官と参謀長までも攻勢に翻意。
- 攻勢は絶対に失敗する。しかし反対意見は通らず、意に反した攻勢作戦を自らの手で立案。
- 結果、攻勢作戦は失敗。
- 第三十二軍は、壊滅的被害と弾薬不足により、その崩壊を早めることになった。
いかがでしょうか?
あるあるですよね。
たぶん会社で一生懸命働いている人には、共感してしまう点が多くあると思います。
ぼくもあまりに共感しすぎて、関連本3冊を一気読みしてしまいました。
結局、80年前に大きな犠牲を払った戦争から、ぼくらの前の世代は何も学んでこなかったということ。
だからこそ、これからは、先人の教訓を活かし、同じ失敗を繰り返さないようにしなければいけないと思います。
今回は、旧日本陸軍第三十二軍高級参謀八原博通大佐に関連する本4冊を紹介します。
また、沖縄戦を通して、現代組織に共通する問題点や得られる教訓について考えていきたいと思います。
- 1902年(明治35年)、鳥取県生まれ。
- 陸軍大学校を恩賜の軍刀組で卒業する秀才。
- アメリカへの留学経験もあり、日本特有の精神論ではなく合理的な思考ができる人物。
- 長く陸軍大学校の教官も務め、戦史戦術研究にも明るい。
- 1944年、第三十二軍創設時から高級参謀。(司令官、参謀長に次ぐナンバー3)
八原博通高級参謀に関連する本4冊
『沖縄決戦——高級参謀の手記』(八原博通)
八原参謀が終戦後自ら書いた本で、今回一番オススメの本です。
昭和19年、沖縄に第三十二軍が創設されるところから、米軍の収容所において終戦を迎えるところまでの経過が、八原参謀の視点から詳細に記されています。
戦闘の経過や当時の司令部内の状況だけでなく、他の本では省かれてる首里から摩文仁への後退の場面や、牛島司令官と長参謀長の自決の場面なども、本人の率直な感想を交え描かれており、臨場感があります。
また、過酷な運命の中にあって、時折交えられる兵員の普段の様子や、沖縄の自然の美しさの描写など、八原参謀が見たものそのままのリアルな感想がぼくにとってはとても印象に残っています。
硝煙やや薄れる瞬間など、三月の陽光に、真っ白い艦体がくっきりと浮かび、なにか絵画的な感じを与える軍艦もある。かつて我らの戦友がアッツ、ギルバート、サイパン、そしてレイテなどにおいて、初めて見参する敵艦隊を、それぞれの感慨をこめて、報告した詩的な電文の数々を想起する。実に先輩、戦友諸君が感じたと同様、我々も、また暫し戦いを忘れ、彼我の観念を絶し、この壮麗にして躍動する天人合一の一大景観に心を打たれる。
『沖縄決戦—高級参謀の手記』P155-156
最後の軍命令を下達し終わると、私は一切の重責から解放された安易さに、無限の深谷に落ちて行くような恍惚の快感に領せられてしまった。
『沖縄決戦—高級参謀の手記』P407
一方で、不合理な体質の大本営や軍司令部への批判も記されており、多くの教訓を得ることができます。
わが陸軍将校、なかんずく高級将校や参謀らは、陸軍大学校で気分本位の上滑りの作戦や、本質を離れた形式戦術を勉強し、しかも卒業後はほとんど用兵作戦の勉強をしない。もっとも彼らの多くは、素質不良な支那軍相手の大陸作戦や、太平洋戦争前段の、戦意に欠けた英米蘭の植民地軍との戦闘経験はもっている。がこの体験がかえって太平洋戦争の後段の作戦指導に禍しているのだ。
『沖縄決戦—高級参謀の手記』P189-190
就職後ろくに勉強もせず、昭和から平成初期の生ぬるい経験に頼って仕事をしているお役所の幹部のことを思い出しました。
『沖縄 悲遇の作戦 異端の参謀八原博通』(稲垣武)
八原参謀の死後、昭和59年に出版された本です。
八原参謀本人にスポットを当てた本ですが、自身で書いた『沖縄作戦』では描かれていない、鳥取での幼少期や戦前の陸軍大学校での様子、開戦時のタイ駐在のことなども書かれています。
沖縄戦についても、現地のことだけでなく大本営や米軍の状況などについても解説されているため、当時の情勢における沖縄の位置づけを俯瞰しながら読むことができます。
過去には文庫版も出版されたようですが、残念ながら絶版となっているようです。
古本屋さんで見かけた際は、買って損はないと思います。
『昭和の参謀』(前田啓介)
タイトルの通り、昭和の陸軍参謀7人を紹介している本です。
最後の7人目に八原参謀が登場します。
前出の『沖縄決戦』と『沖縄 悲遇の作戦』を足して2で割ったような内容が、60ページほどに凝縮されています。(前出2冊が参考文献になっているので当然ですね)
短いですが、八原参謀の苦悩がよく伝わってきます。
ぼくも、この本を読んだことをきっかけに深く共感してしまい、前出2冊をすぐに購入しました。
前出2冊と違うのは、家族への取材を通して八原参謀の戦後の生活にも触れられている点です。
戦後、他の参謀が企業などで活躍するなか、八原参謀は表舞台に立つことを避けたようです。
「一旗揚げようとかいう野心は感じなかった。『お父さんはこれでいいんだ』というのをよく聞きました。『これでいいんだ』というのが何かすごく断定的でね」
『昭和の参謀』P401
『失敗の本質』(戸部良一他)
大東亜戦争における日本軍の失敗の原因を分析した名著です。
本書の論点は、八原参謀個人ではなく、あくまで「なぜ沖縄戦が失敗したのか」についてです。
結論を言えば、大本営や上級部隊である第十方面軍(台湾)と、現地沖縄第三十二軍とのコミュニケーション不足、それによる作戦目的の不統一です。
したがって、航空決戦を本質とする大本営の天号作戦計画と、戦略持久を策する第三二軍の地上作戦計画とは、事前にまったく吻合されることはなかった。(中略)
いずれにしても、大本営、第一〇方面軍は、作戦準備の段階においてこそ、第三二軍に対し強力な指導を行うのがもっとも重要な統帥行為であった。しかし、現実には、第三二軍司令官が自由闊達な戦場統帥を発揮すべき戦果の真最中に、本意ならずとも統帥干渉とも思われるような作戦指導を加えざるをえなくなり、問題を後世に残したのであった。
『失敗の本質』P261
ちなみに、『失敗の本質』に関しては、ミッドウェー作戦の失敗の原因「目的の二重性」についての記事も書いています。
よろしければ、こちらもご覧ください。
沖縄戦の失敗
沖縄戦は、米軍にとって日本との戦争のなかで最も難しい作戦だったと評価されているそうです。
そんな沖縄戦における日本軍の最大の過誤は、大本営(東京)や上級部隊(台湾)と、沖縄の現地軍との間で、作戦目的の認識が統一されていなかったことです。
ただ、それだけでなく、ぼくのような素人でもおかしいと感じる点が多々あります。
ビジネスの現場で似たような経験をした方も多いのではないかと思います。
戦いの前に戦力を削減される
沖縄戦の前、米軍のフィリピン進軍に伴い、日本軍は台湾からフィリピンへ部隊を増援しました。
穴の空いた台湾へは、沖縄にいた精鋭第9師団を転用することになりました。
沖縄へは、日本本土から代わりの師団を送ることになっていましたが、まさかの中止に。
結局、もともと限られた戦力だったにもかかわらず、さらに1個師団を減らされた状態で、米軍の上陸を迎えることになりました。
1つの師団の規模は、約1万5千人~2万人だったようです。
(国立公文書館アジア歴史資料センターHP)https://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index06.html
米軍のフィリピン上陸は、昭和19年10月。
沖縄上陸は、わずか半年後の昭和20年4月。
米軍をどう迎え撃つか。
もっと言えば戦争をどう終わらせるか。
明確なビジョンがなかったことが、沖縄戦のわずか半年前の部隊の削減につながっていると思います。
少数精鋭で準備してきた企画。
中心チームを突然引き抜かれたら・・・
結果がどうなるか分かり切ってますよね。
米軍上陸直前の定期人事異動
米軍の沖縄嘉手納上陸は昭和20年4月1日です。
これに関しては、日本軍も3月4月頃とおおかた予想していたようです。
しかしながら、その直前、昭和20年3月に陸軍内で定期の人事異動が発令されます。
それは師団長や連隊長といった、部隊のトップにまで及びます。
第六十二師団長藤岡中将は着任してわずか半月の後、戦闘が始まった。まったく沖縄に死ににきたのも同然である。
『沖縄決戦—高級参謀の手記』P138
戦闘開始の数週間前に部隊のトップが変わって、人も地形も何もかもわからない状態で指揮をとる。
意図がわからない人事異動。
これが日本の組織の弱さなのかもしれません。
作戦目的の不統一
大本営からの攻勢命令は、沖縄にある飛行場の奪還を命じるものでした。
それはこんなストーリーです。
- 本土決戦に備えて少しでも米艦隊を撃破しておくことが必要
- 敵艦船を倒すためには航空機による攻撃が必要
- 航空機を飛ばすためには飛行場が必要
- だから飛行場を取り返せ
ですが、その本土決戦の思想は、米軍上陸前に事前に第三十二軍に伝えらることはありませんでした。
私の記憶では、ついぞ正式に文書をもって大本営は、本土決戦の企図を示さなかった。況や、この企図に基づき第三十二軍はいかに行動すべきやの、示達は受領した覚えがない。
『沖縄決戦—高級参謀の手記』P109
なぜ事前に伝えなかったのか?
専門家にもわからないようです。
なぜ大本営は本土決戦の意図をすぐ伝えなかったのか。本土決戦のために沖縄で第三十二軍が何をすべきかを明確に指示しなかったのか。分からないとしか言いようがない。
『沖縄決戦—高級参謀の手記』P505 解説より(戸部良一)
そのため、八原参謀たち第三十二軍は、
「日本国および日本軍のために何をすべきか、どう行動するのが最適なのか」
自分たちで考えざるを得ませんでした。
その結果、導きだした答えが、
「いずれ米軍が本土に上陸するが、その前にできるだけ沖縄に引き付け、敵を消耗させ、本土上陸までの時間を稼ぐ」
つまり戦略的な持久作戦でした。
しかしながら、米軍の戦力は圧倒的。
正面からぶつかっても、当然勝ち目はない。
飛行場のような開けた場所はあっという間に制圧され、時間を稼ぐことはできません。
なので、陸軍伝統の攻勢を捨て、正面からぶつからずに戦う方法を選んだのです。
そうは言っても、上層部と現場が違うことを考え、現に行動してしまっている。
会社で言えば「本社のシェア拡大の意向を無視して、支店が勝手に営業をやめた」みたいなことになるわけです。
そんな会社が全体として良い成果をあげられるわけがない。
『失敗の本質』では、現場の状況を理解しようと努めなかった大本営にも、あえて大本営の意向を確認しようとしなかった第三十二軍にも責任があると指摘されています。
ただ、第9師団の抽出を含め細かい軋轢がいろいろあったので、第三十二軍が大本営に対して不信感を抱くのはムリもありません。
大本営は、沖縄戦の時点でも「航空決戦」を夢想していました。
敵艦隊を倒すための航空機攻撃はセオリーです。
しかしながら、それは、自軍にそれなりの航空戦力があるという前提において。
沖縄戦を迎える頃の日本には、まともな航空機も優秀なパイロットもほとんど残っていませんでした。
沖縄戦前のフィリピンのレイテ沖海戦において、日本の連合艦隊は事実上壊滅していました。
なので、そもそも敵を倒すだけの十分な航空戦力はなかったのです。
現に、沖縄戦において、米軍を迎え撃つ日本軍の航空機はほとんどなかったと八原参謀は記しています。
だから、第三十二軍ははじめから航空戦力に期待していませんでした。
(制空権がないため、戦艦大和は沖縄本島に辿り着くことなく沈没しましたね)
使わない飛行場は初めから敵にとらせておいて、そこ以外の自軍に有利な場所で戦う作戦だったのです。
ちょっと生意気だが、非憤のあまり、私はメモ帳に次の文句を残した。
日本軍高級将校
先見洞察力不十分——航空優先の幻影に囚われ、一般作戦思想、兵力配置、戦闘指導ことごとくこの幻影より発する。
感情的衝動的勇気はあるが、冷静な打算や意志力に欠ける。
心意活動が形式的で、真の意味の自主性がない。
『沖縄決戦—高級参謀の手記』P281
勝ち目のない攻勢作戦
戦争に詳しくなくても、単純に比較して、兵力が多い方が有利であることは明らかです。
沖縄戦では地上兵力だけで比較しても、日本軍3個師団に対し米軍6個師団。
さらに海からの艦砲射撃、空からの爆撃が加わります。
米軍には補給がありますが、沖縄は島自体が米艦隊に包囲されているので日本軍には補給はありません。
なので、正面からぶつかって勝てないこと、沖縄から米軍を追い出すことが不可能なことは、戦闘が始まる前から自明でした。
八原参謀が考案した戦略持久は「寝技戦法」とも呼ばれます。
これは、体格的に有利なアメリカ人ボクサーに対し、日本の柔道家が立ち技で正面からぶつからずに寝技を使って勝った、という逸話に着想を得たからです。
しかし、現場の状況を知らない人たちには、その「戦略持久」という作戦が消極的に映ります。
精神論ですね。
そして、中央から圧を受け続けた第三十二軍の上層部も、元々は攻撃中心の教育を受けてきた軍人です。
「苦境を何とか打開したい」、「戦力が残っているうちに一矢報いたい」という思いも加わり、何か月もかけて周到に準備してきた持久作戦を自ら捨て、攻勢に転じることになります。
以下は、若い参謀たちが攻勢支持を意見した時の八原参謀の感想です。
この青二才どもは、作戦のなんたるかを知らない。彼らは軍の作戦準備の状況や、戦場の地形さえもほとんど知らず、今即席で攻勢を主張するなど無責任もはなはだしい。
『沖縄決戦—高級参謀の手記』P187
八原参謀だけが、この攻勢作戦に反対しました。
会議で一度攻勢方針が決定した後でも、考え直して再度反対を意見しました。
攻勢の不可なる所以を力説した。「この攻勢を実施致しますれば、全軍数日を出でずして潰滅し、史上空前の哀れな最後を遂げることは明らかであります」と決言した時は、思わずはらはらと落涙を禁じ得なかった。
両将軍は切々として意見を述べる私を、半ば蔑むように、また半ば憐れむように注視しておられたが、互いに顔を見合わせたまま一言も発せられない。とりつく島もなく、私は退去せざるを得なかった。
『沖縄決戦—高級参謀の手記』P192
上司に意見した時の「蔑むような目」。よくわかります。
日本軍という不合理な組織
今の時代から振り返ってみると、当時の日本軍には、どう考えてもあり得ないずさんな点が数多く見られます。
敵英軍を軽視し補給を無視した「インパール作戦」などもそのひとつです。
ここでは、沖縄戦に間接的に関連する点を紹介します。
陸軍大学校で教える間違った前提
これじゃあ戦う前から負けるはずだよね、って思うエピソードを2点。
たぶん、会社でもあると思います。
日本の1個師団=ソ連の3個師団?
我々軍人は平素の訓練において、攻撃至上主義で訓練されてきた。陸軍大学校の教育においても、わが一個師団はソ連軍の三個師団に相当するという前提で演習を実施した。装備我より優秀なソ連軍に、どうしてその三分の一の兵力のわが軍が対抗できるのか?曰く統帥の妙と旺盛な攻撃精神に依るのだ、と。自惚れも極まれりというべきである。
『沖縄決戦—高級参謀の手記』P264
もはや空想の世界。
人命がかかった作戦の根拠が空想だなんて、ひどすぎますよね。
でも、前提がおかしい仕事ってありますよね。
例えば「女性が結婚して子どもを2人産む」とか。
個人としての生き方無視してるし。
対米開戦後も対ソ戦の戦術教育
対米開戦が昭和16年12月、ガダルカナル島からの撤退が昭和18年2月であることを踏まえて読んでください。
信じられないことだが、陸大の戦術教育は、昭和十八年末まで、対ソ戦一点ばりであり、戦術教育に使われる地図も、満州の地図だった。これが対米戦術に転換したのは、昭和十八年十一月三十日、五十七期生の卒業式にのぞまれた天皇が、天覧の図上戦術が対ソ戦を対象にしたものであることに驚かれ、侍従武官に、
「陸大ではまだ対ソ戦術をやっているようだが、あれで大丈夫なのか」
と下問されたのがきっかけである。
『沖縄 悲遇の作戦 異端の参謀八原博通』P69
ヤバいを通り越して、もはや滑稽ですよね。
天皇に指摘されるまで誰も気づけないし、変えられない。
上層部からの苦言がないと慣習を改められない組織って、今でもありますよね。
戦争に負けた80年前の陸軍と同じだと思ったら、それってヤバくないですか?
玉砕によるフィードバックの欠如
日本軍は、ミッドウェー海戦の敗戦により制海権制空権を失って以降、太平洋の島々を次々と占領されました。
そして島を守る守備隊は「生きて虜囚の辱しめを受けず」の戦陣訓に基づき、ことごとく玉砕しました。
しかし、誰も生還しなかったことにより、負けた戦いの原因を分析し、次の戦いに活かすことができませんでした。
なので、暗闇にまぎれた夜襲や、精神論に基づく突撃などに終始し、玉砕を繰り返しました。
一方の米軍では、たとえ勝った戦闘であっても、そこからフィードバックを得て、次の戦いに活かました。
これって、今の時代からすれば当たり前。
でも当時の日本軍では、精神論がそれを妨げた。
八原参謀はそのことを理解していたので、過去の戦史や、米軍の戦い方を研究して、沖縄戦に臨みました。
だからこそ、米軍が当初1か月で終わると想定していた沖縄戦において、第三十二軍は3か月も持ちこたえることができました。
ちなみに、沖縄戦のフィードバックを本土決戦に活かすため、長参謀長は八原参謀に自決せず本土に帰還するように命じます。
失敗の教訓を次に活かすことは当たり前のことですが、実はできていない組織が多いように思います。
事業はやりっぱなしで反省や振り返りもしない。
引継ぎ軽視で人事異動の度に知見が失われる。
とか、いろいろありますよね。
誤った戦果に基づく作戦変更
当時、戦果を捏造し「大本営発表」によって国民を騙したことは周知の事実です。
唖然とする話ですが、騙されたのは国民だけでなく軍もでした。
海軍の誤った戦果発表を信じ、陸軍がその誤情報に基づき作戦を立案実行したそうです。
もうお手上げですね・・・
沖縄戦に関係の深いのが、昭和19年10月の台湾沖航空戦です。
この戦果について、大本営は、米艦隊の撃沈17隻、撃破28隻と発表しました。
米海軍機動部隊が一挙に壊滅したような内容です。
しかし、この戦果はまったくの誤りでした。
しかし、この大本営発表は、全くの虚報だった。米機動部隊の実際の損害は、巡洋艦二隻が大破し、空母一隻が小破しただけだった。
『沖縄 悲遇の作戦 異端の参謀八原博通』P106
しかも、戦果の誤認に気づいた海軍は、すぐに陸軍に伝えなかった。
この虚報に基づき、陸軍ではフィリピンでの作戦計画を一部変更しました。
米海軍が壊滅したチャンスを活かして戦おう、と。
もうため息しかでません・・・
ちなみに、なぜこんなことになったのか。
現場での様子を紹介します。
では、なぜ戦果があまりにも誇大に見積もられたのか。
日本機の搭乗員たちのなかには、味方の軍艦すら上空から見たことのない新人もまじっていた、ただでさえ目標の確認が困難な夜間に、味方機が米艦付近の海面で炎上する火光を、敵艦撃沈と見誤まったのである。
しかも大多数の機は未帰還となり、ごく少数の機が基地にたどり着いた。生還した搭乗員が、無意識に戦友や部下の戦果を誇大視しようとするのは、人情の自然であろう。
報告を受ける幕僚も、期待が大きかっただけに、誘導尋問的に、戦果をひき出そうとする。これも自隊の名誉を重んじ、散華した部下に花を持たせてやろうとする日本的心情の現れで、それを冷静さを欠いたと非難するのは、酷であるともいえる。
そういった、個人的な善意に満ちた感情が積み重なると、状況判断や作戦のうえで、大きな過誤が生じてしまう。これは陸海軍を問わず、昭和期の日本軍がおち入ったワナであった。そしてそれは、日本人の国民性に深く根ざしているが故に、抜きがたいものがあった。
『沖縄 悲遇の作戦 異端の参謀八原博通』P107
情報に基づく判断が重要なのは言うまでもありませんが、そこに日本的人情が入る込むと、結果を誤ることになりかねないということですね。
まとめ
「私は失敗必定の攻撃の結果を思うと、つい憂鬱にならざるを得ません。今回の攻撃が成功するやに考える者が多いようですが、おそらく数万の将兵は、南上原の高地にも手をかけ得ず、幸地付近を血に染めて死んで行くでしょう。これは、無意味な自殺的攻撃に過ぎぬものと思います。しかし、すでに閣下がご決心になったことでありますので、私としては、もちろん、その職責に鑑み、全力を尽くしております。また私の態度については、今後十分注意いたします」
『沖縄決戦—高級参謀の手記』P270
上記引用は、反転攻勢を控え、牛島司令官に叱責された時の八原参謀の言葉です。
沖縄戦を迎える陸軍第三十二軍は、戦いの前からさまざまな問題を抱えていました。
そして米軍上陸とともにその問題が噴出し、まったく合理性のない戦い方を強いられ、いたずらに戦力を消耗しました。
自ら立案した戦略持久を自らの手で捨て、意に反した作戦計画を書かなければなかった八原参謀に同情共感せざるを得ません。
恐らく、組織の中で働くみなさんも、思いを同じくしているのではないかと思います。
上司の意に沿った行動をとるか、反対の意見を具申するか。
参謀として、上司を支える立場(幕僚)として、どうあるべきなのか。
八原大佐の行為は、幕僚道に外れたものであることは疑いない。しかし、八原大佐が、そういった非常手段をとってまで、戦略持久を貫こうとしたことに、ある感動を覚える人もあろう。
無謀であることが明白と思える作戦で、幕僚はどう行動すべきなのだろうか。おのれの信念を殺して、潔く決定に服することも立派な幕僚道である。しかし大局的見地に立って考えるならば、無謀な計画の損害を、最小限に食い止めようとするのも、幕僚の本分ではなかろうか。
『沖縄 悲遇の作戦 異端の参謀八原博通』P197
最後は、ぼくたち一人ひとりが決めないといけません。
ただ、八原参謀の人生を教訓とするならば、上司の意に反することも直言すべき時がある。
それだけは確かだと思います。
攻勢が失敗し、牛島司令官から作戦中止の指示を受けた時のことを、八原参謀はこう書き残しています。
いかなる重大事も参謀長以下にまかせ、いささかの疑いも挟まぬこの将軍をして、今のようなことを述べねばならん苦境に突き落としたのは、結局私の補佐が十分ではなかったからである。真に軍の安危にかかわると信じたならば、死を賭しても、その主張を貫くべきではなかったか。もちろん私は、全力を尽くしたと信ずる。しかし必死の誠意に欠けるものがあったことを、悔いずにはおられぬ。
『沖縄決戦—高級参謀の手記』P287
彼が残してくれた教訓をムダにはできない。
どのような結果になっても、悔いが残るような補佐はしたくない。
ぼくはそう思いました。
八原参謀は、戦後多くを語らず、表舞台に立つこともなかったようです。
自決せず復員したこと、
第三十二軍の作戦が正しく評価されなかったこと、
沖縄県民の犠牲のことなど、
いろいろな苦悩を抱えてすごしたようです。
また、軍の参謀として、自分が補佐すべき2人の将軍が目の前で自決し、軍が消滅したその時の無念は計り知ることができません。
以下は、司令官と参謀長が自決した場面です。
黙ったまま、ぐったりとなって、白々と明けゆく空を眺めていた。立派な最期、無念の死、かくて激闘三か月、わが第三十二軍は完全に潰え去ったのである。時に昭和二十年六月二十三日午前四時三十分!嗚呼!
『沖縄決戦—高級参謀の手記』P438
八原参謀の教訓が、みなさんが究める参謀道幕僚道の参考になればうれしいです。
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