女性と経済を考える|『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』

アダム・スミスの夕食

アダム・スミスは夕食のテーブルで、肉屋やパン屋の善意のことは考えなかった。取引は彼らの利益になるのだから、善意の入り込む余地はない。自分が食事にありつけるのは、人々の利己心のおかげだ。

いや、本当にそうだろうか。

ちなみにそのステーキ、誰が焼いたんですか?

P26

こんにちは!

男の専業シュフ、シロイクジラです。

今回は『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』という本を紹介します。

「夕食を作ったのは誰か?」という問いから、女性と経済について考えていきたいと思います。

アダム・スミスと言えば、教科書にも登場する経済学者です。

「神の見えざる手」で有名ですよね。

で、そのアダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?

答えを先に言うと、夕食を作ったのは彼の母親です。

アダム・スミスって良いこと言ったけど、お母さん(女性)がいなかったらご飯食べられなかったよね。

それなのに、その経済モデルは女性の存在を無視しているよね。

という主張の本です。

問題は、私たちの働き方や考え方が、「経済人(ホモ・エコノミクス)」という誤った前提の上に立っていることではないか。この経済人という幻想に立ち向かわないかぎり、状況は変わらないのではないか、と著者は言います。なぜなら「経済人は、けっして女性ではない」からです。経済に象徴される経済学の考え方が、女性を考慮に入れるどころか、全力で排除してきた経緯を本書は明らかにします。

P265-266 訳者あとがき

男女平等を考える上で、非常に参考になる一冊です。

「男女共同参画」とか偉そうに言ってるヒマがあれば、まずは本書をお読みいただきたいです。

経済理論やフェミニズムなど、身構えなくても読めますので、ぜひ一度挑戦してみていただければと思います。

目次

アダム・スミスが夕食を食べられたのは女性のおかげ

アダム・スミスは生涯独身だった。人生のほとんどの期間を母親と一緒に暮らした。

母親が家のことをやり、いとこがお金のやりくりをした。アダム・スミスがスコットランド関税委員に任命されると、母親も一緒にエディンバラへ移り住んだ。母親は死ぬまで息子の世話をしつづけた。

そこにアダム・スミスが語らなかった食事の一面がある。

肉屋やパン屋や酒屋が仕事をするためには、その妻や母親や姉妹が来る日も来る日も子どもの面倒を見たり、家を掃除したり、食事をつくったり、服を洗濯したり、涙を拭いたり、隣人と口論したりしなければならなかった。

(中略)

世界にとって意味があるのは、伝統的に男性が担ってきた仕事だ。そこから経済学の世界観がつくられる。女性の仕事は「その他もろもろ」。男性が仕事をするために、誰かがやらなければならない何か。

(中略)

アダム・スミスが答えを見つけたのは、経済の半分の面でしかない。彼が食事にありつけたのは、商売人が利益を求めて取引したためだけではない。

アダム・スミスが食事にありつけたのは、母親が毎日せっせと彼のために食事を用意していたからだ。

P26-28

アダム・スミスは、経済の法則を、個人は利己的に利益のために行動するものだと考えました。

肉屋が肉を売るのも、自分たちの利益追求ため。

でも残念ながら、その肉が自分の口に入るまでのことは考えなかった。

アダム・スミスは今も経済学に大きな影響を与えているようですが、

その彼は、母親がご飯を作ってくれなければ、このような立派な研究を成し遂げることはできなかったと言えます。

しかしながら、アダム・スミスに始まる経済モデルにおいて、女性が担う仕事は経済の外に追いやられているのが現状です。

毎朝15キロの道のりを歩いて、家族のために薪を集めてくる11歳の少女がいる。彼女の労働は経済発展に欠かせないものだが、国の統計には記録されない。なかったことにされるのだ。国の経済活動の総量を測るGDP(国内総生産)は、この少女の労働をカウントしない。ほかにも子どもを産むこと、育てること、庭に花や野菜を植えること、家族のために食事をつくること、(中略)アダム・スミスが『国富論』を執筆できるように身の回りの世話をすること、それらはすべて経済から無視される。

一般的な経済学の定義によると、そうした労働は「生産活動」にあたらない。何も生み出さないことにされてしまう。

P27

経済人は女性ではない

本書が主張しているのは、現行の経済モデルの前提そのものに誤りがあるということです。

それはつまり、経済モデルの中で動く「経済人」に女性が想定されていないということです。

経済学の描く個人は体を持たない理性であり、そのため性別がない。だが同時に、その個人のあらゆる性質は、伝統的に男性のものとみなされてきた性質に一致する。

P58-59

経済人は女性を締めだすための都合のいい道具である。私たちの社会は古くから女性に特定の仕事を押しつけ、女だからそれをやれと命じてきた。そのうえで男性中心の経済理論を設計し、女性の活動に経済価値を認めないことにした。男性の経済活動を支えるために、女性はケアや共感や献身や配慮を引き受けなくてはならない。だが世の中で価値があるのは、経済だけだ。

経済理論は社会を支配するロジックとなり、女性の役割は経済の役に立たないものとして、しかし経済のためになくてはならない土台として、そこに固定された。

P227

なので、いくら男女平等と叫んでも、間違った前提に基づいた経済モデルのなかで勝負しなければならないとなると、当然ながら女性にとって不都合が生じます。

誰もが経済人であるという建前を貫くために、現代の社会は女性を経済人同様にしようとしてきた。はいはい男女同権ですよ、市場で競争する自由をあげますよ。さあ思う存分戦いなさいね。

そして女性たちは、男性によって男性のためにつくられた枠組みのなかに放り込まれた。男性のニーズに合わせてつくられた労働市場で、無理やり自分の価値を証明しなくてはならない。女性を排除してきた市場のなかで、いないはずの女性が戦うのだから、当然いろいろな問題が出てくる。

女性を加えてかき混ぜればいいというものではない。

P87-88

子どもを宿したときから、それまでのやり方は通用しなくなる。(中略)

いったいどうすればいいのか。経済人を前提にした職場は、そんなものを受け入れてくれない。

経済人の胸から母乳があふれ出ることはないし、ホルモンに振りまわされることもない。彼には体がないからだ。

P92

例えば、会社に同期採用の男女がいるとして、女性が育休を取得した場合、男性の方がその分多く仕事をして会社に貢献していることになるので、男性の方が早く出世するのが当然。育休期間があるのに男女両方同じスピードで出世するのは男性にとって不公平という議論があります。

これがまさに経済人の誤った前提がもたらす弊害かと思います。

なぜ女性は収入が少ないのか

女性が子どもを産めるという事実が意味するのは、女性が子どもを産めるということだ。ずっと家にいて子どもの面倒を見るべきだということではない。

P55

これって当たり前ですよね。

でも、現実にはそう思っている人は多くはないのではないでしょうか。

「個人はそれぞれが合理的な選択をする。だから市場も合理的である。」

なんとか主義とかなんとか学派とか、そんな専門的なことはわからないですが、今の経済モデルは大かたこのようになっているらしいです。

でも、先に触れたとおり、その個人はあくまで男性が考え出した経済人です。

なので、男女の賃金格差については、経済学では次のように考えるそうです。

もしも女性の稼ぎが少ないならば、それは女性が高い賃金に値しないからだ、と彼らは考えた。世の中は合理的にできていて、市場はつねに正しいのだ。市場が女性の賃金を少なく計算したなら、それが女性にふさわしい金額にちがいない。経済学者の仕事は疑いをもつことではなく、一見おかしなケースであっても市場の判断を正当化することにあった。

女性は非生産的だから賃金が低い。それが彼らの出した結論だ。

P50-51

本書が指摘しているのは、現実にあわせて経済モデルが作られたのではなく、経済モデルにあわせて現実が解釈されているということです。

でも、何を根拠に女性が家事に向いているといえるのだろう?

経済学者によると、もしも男性の方が家事に向いているとしたら、すでに男性が家事をしているはずだ。その方が効率がいいからだ。でも現実に、男性は家事をしていない。だから女性の方が家事に向いているにちがいない、というわけだ。

女性が家事に向いているという説は、その程度のいいかげんなものだった。聞かれれば、生物学的に決まっているのだ、と言ってごまかすのが落ちだった。

P54-55

なんか屁理屈みたいですよね。

でも、経済学者たちは、自分たちが考え出した経済モデルが正しいと思っている。

だから、不測の事態が生じた時は、現実にあわせてモデルを変えるのではなく、モデルにあわせて現実をねじまげてしまう。

しかもそのモデルで想定されている個人(経済人)は女性ではない。

どんな数式を使っても、経済学者は結局同じ結論に行き着く。女性の地位が低いのは合理的であると。世界中の女性が男性よりも貧しいのは自由な選択の結果であって、だから何も問題ないのだと。

(中略)

アダム・スミスの時代からずっと、経済人は別の人の存在を前提にしていたのだ。献身とケアを担当する人の存在がなければ経済人は成り立たない。経済人が理性と自由を謳歌できるのは、誰かがその反対を引き受けてくれるおかげだ。

P58-59

逆にいうと、この悲観的な現状をよく理解した女性であればこそ、かえってその現状にあわせ男性を立てるような行動をとっているのかもしれません。

カナヘビ

政治家の奥さんが一歩も二歩も下がって歩いたり、夫の後ろで一生懸命頭を下げたりしているのを見ると、本当にそれでいいのかなぁと思ってしまいます。というかそれって集票に必要なのかな?

ちなみに断っておくと、非生産的な女性(おつぼねさま)にも高い賃金を払えとは思いません。

昔、何を聞いても「わたしわからない」と言うし、市民が窓口に来ても嫌そうな顔をして対応するし、自分の仕事をぼくに振って定時に帰るし、そのくせ同年代の男性職員よりも役職が低いことを根にもっていたおばさんがいましたが、その人はもっと低賃金で働くべきだったと思います。たぶん年齢的に年収600万円~700万円、退職金は2000万円は支払われたのではないかと思います。権利を侵害されている女性がいる一方で、このような事例があることには憤りを感じます。

なんで仕事ができないかというと、昔のお役所では女性の仕事はお茶くみだったそうです。あとは窓口に笑顔で座っていればよかったと。これはぼくの嫌味ではなく、あるおばさん職員が実際に言っていたことです。差別的ですが、女性だからという理由で重要な仕事をさせてもらえなかったということですね。でも、そのおばさんはこう言いました。「あの頃はよかった。今は仕事が大変だから。」

男性中心の経済モデルの中で従属的な立場に置かれた女性。でも、境遇に疑問を感じないばかりか喜んで従っていた部分もあるんだと思います。その結果、時代錯誤で能力のない人材を生産してしまったんだと思います。

女性の仕事とGDP

家事労働がGDPに含まれていないということは、よく言われているところですよね。

でもなぜでしょうか?

フェミニスト経済学者のマリリン・ウォーリングは、ジンバブエのロウヴェルトに住む若い女性の無償労働を観察した。この女性は朝4時に起きて11キロ先の井戸まで歩いて水を汲みに行く。重いバケツを持って家にたどり着くのは3時間後だ。それから薪を集め、皿を洗い、昼食をつくり、また皿を洗い、畑に出て野菜を収穫する。ふたたび水を汲みに行き、夕食をつくり、妹や弟たちを寝かしつけ、ようやく仕事が終わるのは夜の9時。ところが一般的な経済モデルによると、この女性は非生産的で、仕事をしておらず、経済活動に参加していないということになる。

(中略)

こうした労働をなぜGDPに反映させないのか?よくいわれるのは、測る必要がないということだ。家事の量はつねに一定であり、経済成長に寄与しないと。でも、計測すらしていないのに、どうしてそんなことがいえるのだろう。

(中略)

「男性が自分の雇っている家政婦と結婚したら、国のGDPが減ってしまう」

これは経済学者がよく口にするジョークだ。逆に、彼が高齢の母を老人ホームに入れれば、GDPは増加する。いかにもジェンダーバイアスの強い経済学者らしい言い分だが、この話のポイントは、同じ種類の労働でも場合によってGDPに含まれたり含まれなかったりするということだ。

(中略)

家事はとくに測定が難しいわけではない。(中略)ところが家事の価格については、単純に無視されている。女性の家事は自然にそこにあるものだから、計算する必要もないというわけだ。まるで空気のように、いつでもそこにあるもの。目に見えない、無尽蔵のインフラ。

P84-87

家事労働は、直接お金を生まないからGDPに含める必要がないといったところでしょう。

ここでおもしろいのは、同じ家事でも家政婦が行った場合はGDPに算入されて、シュフが行った場合は無視されるという点です。

それは、「経済に貢献しない活動は無価値」だと言っているようなものです。

カナヘビ

GDPってそんな恣意的なものだってのが驚きです。

さいごに

ある夫婦の世帯年収が600万円あるとします。

女性が専業シュフだとした場合、GDPは男性600万円、女性0円になります。

でもそれは、家のこまごましたことを全て奥さんにお願いした結果です。

家事や子育てもやらないといけないなら、仕事だってセーブしていたかもしれません。

セーブした結果、勤務成績に影響し、ボーナスや昇給がダウンしていたかもしれません。

ぼくは経済学が苦手です。GDPが何たるか正確に理解しているわけではありません。

シュフをしている身からすると、たしかに日々の家事はお金を生みださないので、ぼくの家事労働がGDPに含まれていないとしても仕方ないと思うし、GDPに入れてくれとも思いません。

ただ、ぼくが思うのは「世帯年収を得ることには専業シュフも貢献している」ということです。

簡単に言うと、「2人で稼いだ600万円」だということです。

男性のみなさんがそのように思って奥さんに感謝するようになれば、GDPに計算されない無賃労働である家事に対する考え方が変わって、この問題がちょっとはマシになるのではと思っています。

カナヘビ

少なくても「誰の金で飯を食ってると思ってるんだ!」とは言えないですよね

最後に、敬愛するノムさんの話をします。

ノムさん(野村克也氏)はサッチー(野村幸代夫人)に敬意がありました。

サッチーはノムさんに「野球だけやっていればいい」と言って、野球以外のことは全部サッチーがやってくれたそうです。

ノムさんはそのことにすごく感謝していました。

自分が野球選手として、また監督として活躍できたのはサッチーのおかげだと。

サッチーは野球をしたわけではありません。

でも、サッチーがいなければノムさんは野球人として大成していなかった。

ノムさんはそう自覚していました。

野球人野村克也は、夫婦2人でつくった功績。

サッチーの貢献はゼロではないんだと。

今の日本でいきなり男女平等なんてならないので、まずはそういう理解から進めていかないといけないのかなと思っています。

そして、女性が表舞台で活躍して、男性が後方でサポートしてもいいですよね。

紹介した本

書 名 アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話

著 者 カトリーン・マルサル(高橋 璃子 訳)

出版社 河出書房新社 

アダム・スミスの夕食

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コメント

コメント一覧 (2件)

  •  複雑にかみあう歯車の世界で不要な部品なんてほぼないのに、ステレオタイプ化されたハリボテの強いものや美しいもの(資産とか年収とか、新しさとか)だけに寄って生きていこうとすると、きっと自分も社会も知らないうちにめくらになる。政治家、声の大きい人、高額所得者、幹部、その取り巻き…
     そこから距離をとって、カナヘビの住む家で、夕食のひき肉と思想を捏ねながら暮らすほうが、よっぽどましな視力が保たれると思う。
    P.S 最近は本当に眼が悪くなって、特に左目が本当に見辛くて運転にも困っています。

    • 本書が指摘する「経済人」が虚構だったように、世の中には虚構にすぎないハリボテが何食わぬ顔ではびこっています。
      その世界に浸りすぎると、本質を見る目がどんどん曇ってしまう。
      そして虚構の中に居場所を見つけてしまった人は、今度はその虚構を守ろうとする。
      そうしていれば、いつか虚構が真実になると信じて。
      ただし、女性を包摂していない経済モデルがそのことによって限界を迎えようとしているように、いずれ自分が手にしていたものがフィクションだったことに気づいた時に自らの虚しさを知ることになるんでしょうね。

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